房総花物語

こちらは、きょう一時大荒れの天候でした。
強風で傘がテング傘になりそうになり、雨も窓を叩くほどでした。
でも、そのおかげで去年同様、イチョウの雄花に出会えました(笑)。
さて、本当は3月にお届けしたかった記事なんですが、
きょうになってしまいました(汗)。

毎年、我が家に届く早春の花の便り、房総半島の花物語をお届けします。

(それぞれの写真内をクリックすると大きい画面に変わります。)

皆様ご存じの温暖な房総半島では花作りが盛んですね。
特に露地ものしかなかった昔は、季節に先駆けていろんな花が咲くので、
珍重されました。
戦前は田に稲を植え、麦を撒き、額に汗して一途に働き抜くことが
農家の範とされた時代だったこともあり、投機性の強い花づくりは
「道楽者、怠け者」と蔑まれて、たとえ成功してもバクチに勝ったと
いわれたそうです。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、食糧生産に邁進するよう、
国家総動員法や価格統制令、作付け統制令が発令されて、
花づくりは「非国民・国賊」呼ばわりされ、花卉棄却命令が出され、
花をつくることは禁止されたそうです。
畑に植えられた花は引き抜かれ、サツマイモ畑や麦畑に変えられ、
温室は空襲の目標になるガラスをはずし、鉄骨は供出せねばならなく
なったそうです。
地域によっては倉庫や納屋を家捜しされ、保管していた花の種や
球根を焼却され、明治末から発展してきた花づくりは壊滅したそうです。
「実際園芸」という本は昭和16年12月号でついに休刊。
 (戦後「農耕と園芸」として再開されたとのこと。)

1945年(昭和20年)8月に終戦を迎え、花づくりを再開。
物置の隅から種や球根を探し出してきたり、お墓の中に種を
隠していた人もいたそうな・・。
また、山に捨てた球根が元気に生きていたり、畑の隅でこぼれ種が
芽を出しているのを見つけて、そっと植えかえたとか・・。

房州の和田町真浦、半農半漁の村で、花卉栽培の先駆者、間宮七郎平に
薫陶を受けて花づくりを始めた川名りんをモデルに田宮虎彦は「花」
(新潮社 1972年)を書いたそうです。
この小説を元にして高橋恵子主演で映画『花物語』(1989年)にも
なったようです。
「1945年8月15日正午 天皇の詔勅が終わるとりんは山道を駈け登り
地蔵堂の中から油紙で包んだ金盞花のたねとアイリスの球根をとりだした」
                      ~田宮虎彦「花」より~

なお、川名家のすっかり茶色になった「荷出売上簿」は
1947年(昭和22年)1月25日日付で再開したようです。
初日はエリカ16束、小ギク110本だったそうです。
これらは空襲で焼け出され、荒廃した東京の人たちの心を
なごませたそうです。

嘲笑されても非国民といわれても花を愛し、「花は心の食べ物」として、
人里離れた山奥に種苗をそっと隠したりして花を守り続けた先駆者たち、
本当に勇気のある人たちですね。

2 Replies to “房総花物語”

  1. 和田には何度か花を摘みにいったことがありましたが、そんな悲しい過去があったとは知りませんでした。
    食料はお腹を満たしますが、花は心を満たしますね。東日本大震災後、花を避難所に配っているボランティアの人たちがいたことを思い出しました。
    小説「花」、映画「花物語」、見てみたくなりました。

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