ハナミズキ

昨日、久しぶりに古書店を覗いてきました。
ご店主はお元気でしたが、夏頃には閉店されるとか・・。
寂しいかぎりです。
3点買い求め、2点取り置きしていただきました。
その帰りに、行きつけの喫茶店でハニーコーヒーを
飲んできました。
バロック音楽のBGMが心地よく、お店の窓越しには
赤い大輪のバラが一輪咲いていました。

さて、ハナミズキがあちこちで綺麗に咲いていますね。

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きょうは「ハナミズキ」をお届けします。
ハナミズキといえば、一青窈♪なんちゃって☆\(^^;ナンデヤネン
あ~、歌いたくなってきたぁ~~\(*^o^*)/。
脱線してすみませーん_(・_.)/ コケッ。
別名は「アメリカヤマボウシ」です。
カナダ~アメリカにかけての北米大陸東側の原産です。
バージニア州の州花であり、ジョージア州アトランタの市の花
だそうです。

明治45(1912)年、当時の東京市長の尾崎行雄がアメリカの
ワシントン市の親日家にサクラの苗木を送った返礼として、
大正4(1915)年に日本に送られてきました。

当時送られた原木があるのは、以下の3か所だそうです。
都立園芸高等学校(世田谷区)          白2本
農水省果樹試験場・興津支場(静岡県清水市)   白1本
東京大学理学部付属(小石川)植物園(文京区)  白1本

高さは4~10メートル程です。

大きな花びらのように見えるのは実は総苞片(花のつけ根の葉)で、
中心部にあるのが本当の花です。

直径5ミリ程の4枚の花びらがある目立たない花が集まっています。

白、赤、ピンクの花色があり、庭ばかりでなく、公園や街路樹等に
よく植えられており、人気があります。

枝は横に張り出しています。↓

ミズキ科の植物です。

カーネーション

八重桜もそろそろ終わり掛けのおととい、
おばが90歳で亡くなりました。
いつも元気ではきはきしていて、リュック姿に
スニーカーを履いた姿が瞼に浮かびます。
その姿で、活動的な彼女は、丹精込めて作った花を抱え、
義母宅にもよく立ち寄ってくださいました。
あれこれとよくお世話をしていただき、感謝でいっぱいです。
もう一度「ありがとう」を込めて・・。

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・・・

そして、井上陽水の「白いカーネーション」を贈ります。

・・・。

そういえば、カーネーションはもうすぐ来る母の日の花
として有名ですね。
毎年花を咲かせる多年草で、ナデシコの仲間です。
地中海沿岸の原産で、我が国には江戸時代初期にオランダ
から渡来し、現在広く親しまれているのは交配種です。
スプレータイプのものも、よく出回っていますね。
鉢植え用の矮性のものなどもあります。

ナデシコ科の植物です。

房総花物語

こちらは、きょう一時大荒れの天候でした。
強風で傘がテング傘になりそうになり、雨も窓を叩くほどでした。
でも、そのおかげで去年同様、イチョウの雄花に出会えました(笑)。
さて、本当は3月にお届けしたかった記事なんですが、
きょうになってしまいました(汗)。

毎年、我が家に届く早春の花の便り、房総半島の花物語をお届けします。

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皆様ご存じの温暖な房総半島では花作りが盛んですね。
特に露地ものしかなかった昔は、季節に先駆けていろんな花が咲くので、
珍重されました。
戦前は田に稲を植え、麦を撒き、額に汗して一途に働き抜くことが
農家の範とされた時代だったこともあり、投機性の強い花づくりは
「道楽者、怠け者」と蔑まれて、たとえ成功してもバクチに勝ったと
いわれたそうです。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、食糧生産に邁進するよう、
国家総動員法や価格統制令、作付け統制令が発令されて、
花づくりは「非国民・国賊」呼ばわりされ、花卉棄却命令が出され、
花をつくることは禁止されたそうです。
畑に植えられた花は引き抜かれ、サツマイモ畑や麦畑に変えられ、
温室は空襲の目標になるガラスをはずし、鉄骨は供出せねばならなく
なったそうです。
地域によっては倉庫や納屋を家捜しされ、保管していた花の種や
球根を焼却され、明治末から発展してきた花づくりは壊滅したそうです。
「実際園芸」という本は昭和16年12月号でついに休刊。
 (戦後「農耕と園芸」として再開されたとのこと。)

1945年(昭和20年)8月に終戦を迎え、花づくりを再開。
物置の隅から種や球根を探し出してきたり、お墓の中に種を
隠していた人もいたそうな・・。
また、山に捨てた球根が元気に生きていたり、畑の隅でこぼれ種が
芽を出しているのを見つけて、そっと植えかえたとか・・。

房州の和田町真浦、半農半漁の村で、花卉栽培の先駆者、間宮七郎平に
薫陶を受けて花づくりを始めた川名りんをモデルに田宮虎彦は「花」
(新潮社 1972年)を書いたそうです。
この小説を元にして高橋恵子主演で映画『花物語』(1989年)にも
なったようです。
「1945年8月15日正午 天皇の詔勅が終わるとりんは山道を駈け登り
地蔵堂の中から油紙で包んだ金盞花のたねとアイリスの球根をとりだした」
                      ~田宮虎彦「花」より~

なお、川名家のすっかり茶色になった「荷出売上簿」は
1947年(昭和22年)1月25日日付で再開したようです。
初日はエリカ16束、小ギク110本だったそうです。
これらは空襲で焼け出され、荒廃した東京の人たちの心を
なごませたそうです。

嘲笑されても非国民といわれても花を愛し、「花は心の食べ物」として、
人里離れた山奥に種苗をそっと隠したりして花を守り続けた先駆者たち、
本当に勇気のある人たちですね。