ヒマワリ随想

連日の強い日差しで、とうとう日焼けしてしまいました(^^;)。
きょうは青空をバックにすると最高に映える花、ヒマワリを題材に
お届けしたいと思います。
でも最初にお断りしておきますが、今回の写真は部屋から
ベランダ越しに撮ったゲージツシャシン?ぽくなっておりますので
ご了承願いますm(_ _)m。

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外側の花(舌状花)は黄色で、内側の花、中心のこんもりした所は管状花、
あるいは筒状花ともいいいます。(ピンボケでごめんなさい)

さて、 ヒマワリはその大きな花の形が太陽を思わせ、鮮やかな黄色が
元気を与えてくれる植物ですね。

そして、ヒマワリといえば、
昔は・・、
♪誰のために咲いたの それはあなたのためよ~(で始まる)
      <中略>
♪恋の夢を求めて回るヒマワリの花・・♪
伊藤咲子さんの「ひまわり娘」ですね~。

ここで一服。
下の写真はヒマワリの筒状花です。↓

そして、今は・・、
♪どうして君が泣くの まだ僕も泣いていないのに~(で始まる)
      <中略>
♪ヒマワリのような 真っ直ぐなその優しさを 温もりを全部・・♪
秦基博さんの「ひまわりの約束」 の歌詞ですね~♪

ここでまた一服・・(筒状花のアップ)↓

ヒマワリは北アメリカの中西部~メキシコの原産です。
16世紀にはヨーロッパで栽培され、わが国にも江戸時代に渡来しました。

昔、実家にあったヒマワリも夏休み頃に開花し、高さ2メートル程で
しっかと立ち、径20センチ程の大きな花を天辺に横向きからうつむき加減に
付けた姿は子ども心に立派で大きいなぁと思ったものでした。
まさに太陽の花でした。
ヒマワリの花の下でシャワーしたいよ~(笑)
確か 夏休みの家庭科の宿題で、洋服カバーを作りましたが、
薄い黄色の布にヒマワリを刺繍した覚えがあります。
葉も緑のハート形で互い違いに付き、縁には粗いギザギザがあって・・。
葉は触ると裏表ともザラザラしていますね。

園芸品種には巨大輪のものから中小輪までたくさんの種類があり、
草丈10センチ程の鉢植え向きのものや、花色も黄色以外にレモン色や
臙脂色、花の咲き方も一重だけでなく八重のもあり、バラエティーに
富んでいます。

その他、栽培用のものの種は食用とし、食用油も採ります。

キク科の植物です。

カーネーション

八重桜もそろそろ終わり掛けのおととい、
おばが90歳で亡くなりました。
いつも元気ではきはきしていて、リュック姿に
スニーカーを履いた姿が瞼に浮かびます。
その姿で、活動的な彼女は、丹精込めて作った花を抱え、
義母宅にもよく立ち寄ってくださいました。
あれこれとよくお世話をしていただき、感謝でいっぱいです。
もう一度「ありがとう」を込めて・・。

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・・・

そして、井上陽水の「白いカーネーション」を贈ります。

・・・。

そういえば、カーネーションはもうすぐ来る母の日の花
として有名ですね。
毎年花を咲かせる多年草で、ナデシコの仲間です。
地中海沿岸の原産で、我が国には江戸時代初期にオランダ
から渡来し、現在広く親しまれているのは交配種です。
スプレータイプのものも、よく出回っていますね。
鉢植え用の矮性のものなどもあります。

ナデシコ科の植物です。

房総花物語

こちらは、きょう一時大荒れの天候でした。
強風で傘がテング傘になりそうになり、雨も窓を叩くほどでした。
でも、そのおかげで去年同様、イチョウの雄花に出会えました(笑)。
さて、本当は3月にお届けしたかった記事なんですが、
きょうになってしまいました(汗)。

毎年、我が家に届く早春の花の便り、房総半島の花物語をお届けします。

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皆様ご存じの温暖な房総半島では花作りが盛んですね。
特に露地ものしかなかった昔は、季節に先駆けていろんな花が咲くので、
珍重されました。
戦前は田に稲を植え、麦を撒き、額に汗して一途に働き抜くことが
農家の範とされた時代だったこともあり、投機性の強い花づくりは
「道楽者、怠け者」と蔑まれて、たとえ成功してもバクチに勝ったと
いわれたそうです。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、食糧生産に邁進するよう、
国家総動員法や価格統制令、作付け統制令が発令されて、
花づくりは「非国民・国賊」呼ばわりされ、花卉棄却命令が出され、
花をつくることは禁止されたそうです。
畑に植えられた花は引き抜かれ、サツマイモ畑や麦畑に変えられ、
温室は空襲の目標になるガラスをはずし、鉄骨は供出せねばならなく
なったそうです。
地域によっては倉庫や納屋を家捜しされ、保管していた花の種や
球根を焼却され、明治末から発展してきた花づくりは壊滅したそうです。
「実際園芸」という本は昭和16年12月号でついに休刊。
 (戦後「農耕と園芸」として再開されたとのこと。)

1945年(昭和20年)8月に終戦を迎え、花づくりを再開。
物置の隅から種や球根を探し出してきたり、お墓の中に種を
隠していた人もいたそうな・・。
また、山に捨てた球根が元気に生きていたり、畑の隅でこぼれ種が
芽を出しているのを見つけて、そっと植えかえたとか・・。

房州の和田町真浦、半農半漁の村で、花卉栽培の先駆者、間宮七郎平に
薫陶を受けて花づくりを始めた川名りんをモデルに田宮虎彦は「花」
(新潮社 1972年)を書いたそうです。
この小説を元にして高橋恵子主演で映画『花物語』(1989年)にも
なったようです。
「1945年8月15日正午 天皇の詔勅が終わるとりんは山道を駈け登り
地蔵堂の中から油紙で包んだ金盞花のたねとアイリスの球根をとりだした」
                      ~田宮虎彦「花」より~

なお、川名家のすっかり茶色になった「荷出売上簿」は
1947年(昭和22年)1月25日日付で再開したようです。
初日はエリカ16束、小ギク110本だったそうです。
これらは空襲で焼け出され、荒廃した東京の人たちの心を
なごませたそうです。

嘲笑されても非国民といわれても花を愛し、「花は心の食べ物」として、
人里離れた山奥に種苗をそっと隠したりして花を守り続けた先駆者たち、
本当に勇気のある人たちですね。